2004年3月前半の日記
by tom tanabe マグパイへ戻る
2004年3月1日
ある日物置を整理していたら、何年か前まで定期購読していたカー雑誌、「カーグラフィック」が目に入った。
懐かしく感じその中の一冊「創刊300号記念号」を取り出した。
それは1986年3月号でした。
今日から数日間はこの本を読み返しながら、昔の思い出の諸々を書いてみます。
という事はえらく長くなりそうなので数日分の日記にまたがる予定です。
僕は少年時代から車が大好き、最初に運転したのは小学校6年生の夏休みでした。
母の郷里山口県に毎年のように夏休みには出かけ、母の実家にあった日産ブルーバードの最初期型をどうしてもと頼み込み、敷地内で祖父が横に座り「そろそろ」と動かせてもらったのです。
なぜか小学生のくせにクラッチ・ミートもうまくいき、スタートでのエンストを1〜2度やった後は、難なく運転できるようになってしまったのです。
味をしめた僕はその長い休み中に何度も運転させてくれとせがみ、ある日は夏休み中で誰もいない近所の学校の校庭に連れて行ってもらい、野球も出来るような広い校庭で、思う存分運転させてもらっていました。 今から45年も前の田舎だったからこんな無茶が出来たのです。
いや、考えてみると田舎だからではなく東京でも似たような状況だったかもしれません。 こんな昔は。
というのも中学校に入って友人がどこからか見つけてきたナンバープレートの付いていない「クロガネ」という、今は無いメーカーの小さな商用車にボール紙をナンバープレートの大きさに切り、絵の具で塗って、「でたらめ」なナンバープレートを付けて近所を乗り回していました。
今考えると、僕とその友人はとんでもない「ガキ」だったわけで、無免許、無登録、無保険の車輌を乗り回していたのですから。
それほど車が好きだったという事でもあるのですが、だいたいメカ系統が大好きで、その「クロガネ」も最初はエンジンがかからず放っておいてあったのを、その友人と直して動かしていたのです。
それほどのカーマニアでしたから、確か中学3年いや高校に入学したての頃に、友人が持っていた雑誌「カーグラフィック」を初めて見せてもらった時は食い入るように読んだ物です。
それは「カーグラフィック(以後CG)」が創刊された当時だと記憶しています。
当時の日本の車雑誌には珍しく豪華で、美しい車の写真が沢山掲載されているそれは、毎月出る「車の図鑑」のように感じたものです。
当然高価で僕はその友人から見せてもらえたので、自分で購入するようになったのは高校の終わりか、大学に入った頃だったと記憶しています。
大学に入ってすぐに普通免許を取得し、親に無理を言って買ってもらったのが、「日産ブルーバードSSS」というモデルでした。
確か1966年だったと思います。 当時は選択肢も少なく、スポーティーなセダンの中で選ぶとすると、コロナ1600S、スカイライン2000GTAもしくは2000GTB、そしてこのブルーバード1600SSS(1600SSというのもあったか)しかありませんでした。
その中でSSSを選んだ理由は当時日産の方がハード的に技術が上だと思っていたからです。
販売のトヨタ、技術の日産と言われていたものです。
特にそのSSSのギアーボックスが、ポルシェ・タイプ・シンクロとして宣伝されていたのも選んだ理由でした。
本当はスカイライン2000GTBというのが欲しかったのですが、ウエーバー製のキャブレター、ダブルチョーク3連装のスカイラインはコロナやブルーバードよりもずっと高額で、大学に入りたての「馬鹿息子(僕)」にはもったいない、高すぎると親の許可が下りなかったのです。
しかしそのSSSでも当時としてはかなりな高額で、平均的なサラリーマンの月給がどのくらいだったか記憶に定かでありませんが、SSSの価格はその平均的サラリーマンの年収を超える物だったと思います。
僕は馬鹿息子だったが親も「馬鹿親」だったんだな〜とあらためて感じます。
よく僕の日記にオヤジの悪口を書きますが、それほど裕福だったとは思えないのにそんな新車を買ってくれたオヤジには感謝をしなければと。
その車では随分と旅行もしました。
車を初めて運転した母の郷里山口県にも友人達と出かけたものです。 40年近くも前ですから、今ほど交通事情が良くなくて、途中で何泊かしながらでした。
そんなカーライフを楽しんではいましたが1960年代の終わり頃から70年代前半の「ヒッピー・カルチャー」への傾倒や「反体制的思考」、はたまた第一次オイルショックとともに公害を撒き散らす車への疑問等が重なり、その上、親の元を出て六本木というなんともマイカーを持つには居心地の良くない所に住むにいたって、一時期マイカーを手放し、CGも購読を止めていた時期が有ります。
1974年にロンドンに移ってすぐに車を購入、カーライフが再び始まりました。
明日へ続く
2004年3月2日
昨日の日記を書いていたら女房が覗いて「何書いているの」と読み始めて、無免許運転及び無登録の車輌を運転していたのを読んで、「まあ随分と悪ガキだったのねえ」と苦笑されてしまった。
自分には当時も今も、それほど悪い事をしていたと言う自覚が無い。
しかしその話のついでに他のことも思い出してしまいました。
と言う事で本日はロンドン編に行かず少々寄り道を。
高校に入りたての頃の話です。
僕は昭和22年生まれなのですが、偶然前の年に交通法改正があってそれまでは普通免許は16歳で取得できたのに、僕らの年から18歳に引き上げられてしまったのです。
16歳になったらすぐに普通免許をと考えていた僕にはとてもショックでした。
しかし当時「自動2輪」という免許があり、それは16歳で取得できたのですが、この免許で運転できる車輌は大型2輪(排気量の制限無し)及び軽自動車も含まれていました。
16歳になった友人達はほとんど軽自動車免許というのを取得していたのですが、この自動2輪免許というのはそれよりも1ランク上の16歳で取得できる最も難しい免許でした。
いまだ大型2輪免許(ナナハン免許とも言われた事がある)というのは取得がとても難しいと思いますが、その当時の自動2輪免許というのは、軽四輪も運転できる特典がついた非常に難しい物でした。
僕らの頃の自動二輪免許試験は車輌持込で、当時小金井にあった運転免許試験場の周りにある代書屋が大型バイクを試験用にレンタルしていました。
勿論その代書屋のではなく自分の知り合いが大型バイクを持っていればそれを持ち込めたのですが、16歳になったばかりの僕らは持ち込める大型バイクを所有している人間は皆無でした。
昨日の日記にも書いたように、運転に関しては随分と「悪ガキ」だった僕は当然のように山口県で親戚のバイク(そう!スーパーカブが原点です)や結構大型のスクーター(富士ラビットなんてのがありましたな〜)を毎日のように無免許運転していたので、自動2輪免許も一発で合格してしまったのです。
確か同じ代書屋から借りたバイクを使って試験を受けたグループの中で僕だけが合格してしまったのです。
何しろ僕の親は運転免許試験を受けるだけでも大反対だったので、受験料は少ないお小遣いからなので、何度も落ちて受験に金をかけるわけにはいかなかったのです。
そうそう運転免許についてもう少し書くと、18歳になっていよいよ普通免許が取得できる年齢になった時には、友人達は自動車教習所に通いだしたのですが、そこでも我が両親は一切教習料を出してくれなかったのです。
で、また小金井試験場に出向いて試験を受けました。
かなり自信は有ったのですが、普通免許もまさか一発で合格できるとは思ってもいなかったので、自分でも本当にビックリしたものです。
バイクの時には自信があったのかそれほど驚かなかったが、普通免許は友人達からも非常に難しいと聞いていましたので。
自動車教習所で何十時間も教習を受け、何十万円も使って、実地試験免除で学科試験だけを受けて免許を取得するというのが当たり前になっていたので、行政側も(自動車教習所とつるんでいるとは言わないが)簡単に合格者は出さないぞと言う態度ミエミエだったのです。
いまだに同じように難しいと思いますが、とにかく、いきなり行って実地試験の第一回目で合格と言うのは自分でも期待していませんでした。
ですから実地試験が終わって、合否の結果を待合所で他の受験者と待っていた時に、僕のグループの試験官がいつまでたっても現れず、全員が不合格になったと思っていたのです。
他のグループの試験官が合格者名を何人分か読み上げて(非常に少なかった)引き上げてしまった頃に、突然僕らの試験官が現れて「田邉邦彦」と大声を上げ、「場内放送でおまえの名前を呼んだのになぜ聞いてなかったんだ!!」とえらく怒りながら「合格」と入った受験書を僕に叩きつけるように放り出して出て行ってしまった時には、何が起きたのかすぐに判りませんでした。
つまりこの試験官は自分の受け持った受験者たちの中で合格が僕だけだったために、わざわざこの待合所に発表しに来るのが面倒になったので、場内放送で僕の名前を呼び、試験官の事務所まで取りに来させようとしたのです。
試験官は必ず待合所に合否発表に来るものとばかり思っていた僕は混雑して「ガヤガヤ」している試験場で僕の名前が呼ばれてるなんて思いもよらなかったのです。
しかし、いや〜「嬉しかったです」ほんと。
初めての受験で合格、それも僕のグループの中でただ一人なんて。
教習所へ払う金「ゼロ」でしょ。 「僕は何と親孝行なんだ」とさえ思ったものです。
で、なんで一発で合格できたのか。
16歳で自動2輪免許を取得し、友人の軽自動車を運転する機会が何度かあったというのも有りますが、実はやはり「悪ガキ」をやっていたのです。
まだ高校に入りたてですから16か17歳の頃です。
同級生に「T君」というのがいました。 彼も僕と同じように車大好き少年で、同じように普通自動車免許が18歳に引き上げられてしまったのを一緒に嘆いていました。
で、その「T君」は墨田区に住んでいたのですが、何と親の車(セドリック)を運転して大田区の僕に家まで遊びに来るようになったのです。
勿論「無免許運転」です。
彼は16歳になったら家の車を運転できると大いに期待していたのですが、18歳に引き上げられてしまったのですが、待ちきれなかったと言うか。
勿論彼も親の公認で「無免許運転」していたわけではないので、彼が運転して来るのは親が寝静まった真夜中を過ぎてからです。
道に面した僕の部屋の窓ガラスが「コツコツ」と音がすると「T君」が遊びに来た「合図」でした。
僕も窓からそっと忍び出し、彼の運転してきたその車に飛び乗ると、出かけたものです。
行き先は、ほとんどが歌舞伎町にあった「ジャズクラブ」でした。
僕はそれほどジャズに凝っていたわけではないが、真夜中までやっていて僕らが支払える料金の店というのには「ジャズクラブ」がぴったりでした。
今これを書きながらそれらの店の名前を思い出そうとしているのですが出てきません。 う〜ん、なんていった名前だったか。 当時マニアの間では随分と名の知れた店々でした。
珈琲を飲みながらモダンジャズのかかる店で時間を潰す、それだけで楽しかったものです。
そんなわけで僕も彼の持ち出してきた親のセドリックを運転する機会も有って、運転の腕前は「めきめき」上達していったのです。
それにしてもノンビリした時代だったと言うか。
墨田区から大田区、そしてそこから新宿と、もう随分な範囲を無免許で走り回っていたのですが、一度も検問に出遭った事も無いし危ない事も一度も有りませんでした。
やはり運が良かっただけなのか。
続く
明日はロンドンで英国免許をした顛末も書きます。
2004年3月3日
さて、ロンドンに移って、ファッションの買い付けが仕事で住みに行ったわけですから車がないと手も足も出ません。
最初にイギリスで購入したのはオースティン1300という車でした。
本当はミニが欲しかったのですが、あまりにも小さ過ぎて商品を仕入れた時に積みきれないのではと考えたからです。
最初にイギリスで購入する車はどうしてもイギリス製をと考えていたのでミニよりは多少サイズの大きい胴長なオースティンに決めたのです。
しかし、まあ何ともよく壊れました。
中古で買ったからよけい酷かったのかもしれませんが。
まるでその後のイギリスの自動車産業の行く末を暗示しているようでした。 とにかく中古だろうが高級車だろうが英国車というものの信頼性の無さには本当に驚かされた物です。
雨が降ってもエンジンがかからなくなるような状態では仕事にならず、とうとう1年後には別の車を捜す羽目に。
で、当時住んでいたノッティングヒルのそばにあった、Holland Park Mews という(通りの名前です)車の修理屋や小さなディーラーが軒を連ねているところを散歩している時に「For Sale」の付いたBMWを見つけたのです。
イギリス車には愛想を尽かしていた時だったので、ドイツ車だったらと思ったのです。
車種はBMW2002Tiiという、僕が最初に所有したブルーバード1600SSSと性格を同じにする、スポーティーセダンでした。
この2002Tiiは当時のサルーンカーレースにも度々登場していました。
その修理屋兼ディーラーは、僕のオースティンを下取りしてくれるので話はすぐまとまりました。
イギリス車の信頼性に懲りてBMWにした訳ですが、いやはやこの車にはそれ以上に悩まされ続けました。
これも中古で購入したのですが、すぐにデファレンシャルギアーが壊れ、これは購入直後だったのでその店で修理はしてくれたのですが、一番の問題は燃料噴射装置でした。
当時はまだキャブレターが主流の時代だったのですが、最新技術を取り入れるBMWはまだまだ信頼性の低いこの燃料噴射、つまりフェールインジェクションをろくに長期テストもしないで採用したようです。
BMWという会社はこの当時から最新技術を他社に先駆けて取り入れようとするばかりに、ろくにテストもしないで採用するためか信頼性の面でいまだに安心できない面がありますな。
このインジェクションが「ぐずり」出すと絶対にエンジンがかかりません。(燃料が来なかったり、ちゃんと噴射してなかったり) バッテリーが上がってしまうほどセルを回し続けると、いきなりエンジンがかかる時もマレにはありましたが、ほとんどは諦めて数時間置いておくと難なくかかったり。
それも機嫌が悪くなるのがいつ起こるか判らない状態。 調子の良い時にはハンドリングも良いし、速いし楽しめる車だったのですが。
それでも初期の頃はそれほど酷くなかったので、この車で女房と二人、フランスからスペインまでも出かけました。
パリからリヨンを通りスペインに入り、バルセロナからマドリッドまで、その時のドライブ旅行は本当に楽しくて、いまだまたチャンスが有ったらヨーロッパを車で当時を偲ぶ旅をしたいと考えています。
長い旅行から帰って来て、燃料噴射装置の不具合だけでなくピストンのオイルリングの磨耗が原因か排気の中に混じる白い煙の量が増え始めたので、手放す時期だと悟りました。
これらの修理代を考えたら売り払って別の車に変えたほうが安くつくのです。
で、次の車を何にしようか迷いました。 もうイギリスでは中古車は絶対に購入しないと決めていました。 車検も非常にずさんなイギリスでは中古車はほとんど整備もされていなくて、エンジンオイルでさえ換えたことが無い車なんてのは珍しくないと知ったのです。
しかし女房はその頃、本当にポンコツのミニを捜してきて乗っていましたが、運が良い事にほとんど問題は出なかったのも確かです。
1963年型の大古のミニは12〜3年落ちだったためにかなり「こなれている」と言うか、基本的に悪いところはすでに出尽くしているので、たまに出る問題はほとんどが消耗品のパーツくらいで、女房は随分と気に入っていました。
1963製と言うのはミニの中でも本当に初期型で、サイドウインドウは上下でなく横にスライドするやつでした。
つまり窓を開ける場合は、そのガラスを横にスライドさせるわけで、また内側からドアをあける場合はドア・ノブではなく横にぶら下がっている「ひも」を引くとドアが開くといった按配で、何ともキャラクターがありました。
さて、BMWの次に何にしようか随分悩みました。 その頃にはロンドン以外にもバーミンガムやリバプールなど地方にも仕入れに行くことが増えていたので高速道路でも楽な車、そして「絶対的に壊れない車」が必要でした。
仕入れと言っても、車に積むのはサンプルなどが多く、それほどかさばらないので、スポーティタイプのセダンを考えていました。
近くにアルファロメオのディーラーがあり、新車のアルフェッタ2000GTVというのに一瞬心を動かされたのですが、やはりイタリア車、今度は壊れない車を選ぶという第一条件をクリアーは出来ません。
で、迷っているうちに新しいディーラーが近所に誕生したのです。
日産のディーラーでした。
そこは元々メルセデスの店だったのが潰れて、新しくどこの車が入るのかと思っていたら日本車だったのです。
「わざわざ英国に住みに来てまで日本車を?」という気もしましたが、僕はそのディーラーを覗いてみました。
そう、ちょうど日本車が欧米でも認められ、その信頼性でイギリス製の車を駆逐し始めた頃です。
オープンしたばかりのそのディーラーは、僕が日本人であるという事もあって非常に歓迎してくれ、とても良い条件でフェアレディー260Zを勧めてきました。
確かに2+2なので後ろにも荷物は積めるし、日本車だから信頼性はあるだろう、また高速道路でもフェアレディーなら楽であろうと、決めてしまったのです。
多分僕が、そのデイラーが販売した第一号車の客だったはずです。
最初の販売記念だったためか、そのディーラーの所長始め皆でパブに行ってシャンペンで祝ってくれたのを憶えています。(僕は酒飲めないんですけどね〜)花束までもらって、まるで宝くじに当った人が祝福を受けてるみたいでした。
その260Zではイギリスの田舎随分回りました。 ほとんどが仕事でリバプールあたりまででしたが、故障はしないし日帰りでも結構楽でした。
ただし外見ほどスポーティでは無かったです。 ハンドリングはBMWの方が良かったと思います。 高速でハンドル極端に軽くなるし、ブレーキのフェードも結構早くヒヤっとさせられた事も何度かあります。
しかし故障しないのが何よりでした。 道路で立ち往生してサービスカーが来るのを何時間もじっと待つという経験だけは、二度としたくなかったので。
この車は結局イギリスを出るまで乗り続けました。
続く
2004年3月4日
本日JAL771便で母の「従妹」とその娘が到着。
前の日記に、SARSや鶏インフルエンザ騒ぎ以来、空港での検疫が非常に厳しくなったと書きました。
ところが最近オーストラリア在住の日本人の友人と話していたら、検疫自体は非常に緩やかになっているとの事。
つまり昔は食べ物は結構厳しく調べ、梅干なんかでも種があるからと没収したりだったのが、「かなり何でも入るよ」との事。
それを聞いて我が母は郷里の「蒲鉾」をどうしても食べたいと、従妹に持って来てもらうと言い出した。
蒲鉾と言えば当然魚肉を使っているわけだから、僕の女房がスモークサーモンを取り上げられた経験から「本当に大丈夫」なのか半信半疑でした。
別の友人にも聞いたところ、「絶対に大丈夫。 私なんて貝の身の冷凍パックまで持ってきて、検疫でちゃんと見せたけどOKだった」なんて言うので、それならと母は出発直前の従妹に電話をかけて、買って来てくれと頼んだ。
ところが従妹とその娘は、オーストラリアの検疫と言うのは非常に厳しいと聞いていたらしく、そんな食品は駄目なのではないかと心配になったらしい。
で、親戚のJALのスチュワーデスやはたまた東京のオーストラリア領事館にまで電話をして確認しようとしたらしい。
ところが全く持って誰も正確な情報をもっていないんですよね。 オーストラリア領事館なんて「駄目でしょう」なんて言っていたらしい。
そんなわけで出発ぎりぎりになって電子メールでやはり駄目なようなので空港で没収されたら悔しいから持って行きませんなんて言って来た。
オーストラリアにすでに持ち込んだ経験のある人が大丈夫ですよと言っているのに。
せっかくその蒲鉾は山口県で購入して東京まで送ってあったのに。
そこで没収されるのが嫌で持って来ないのも、持ってきて駄目だったとしても、母が(いや我々が)食べられないのには変わりが無いのだから、それなら没収されても良いから持って来てくれと頼んだのです。
で、結果は?
全く問題なかった。 ワザワザ申告して、これは蒲鉾(英語でフィッシュケー)ですと言ったら「OK〜」って箱を開けろとも言わずに通関出来たのです。
で、色々考えるにオーストラリアの検疫って僕らが考えているほど厳しくないのではないか、心配し過ぎなのではないかという事。
とにかく絶対に「隠して持ち込まない」事が最も大事なようです。
その友人も貝なんて自信が無かったが、日本で食べてとても美味しくこちらの友人にも是非食べさせたいと、没収されたらそれでかまわない覚悟でワザワザ検疫で出して見せたのだそうです。
貝が大丈夫だったくらいだから、蒲鉾なんて元の魚の陰も形も無い物が「ダメ」なわけがないと言っておりました。
う〜ん、それなら今まで母に持って来てもらいたい物が山のようにあったんですけどね〜。 いや〜知らなかった。
と言うよりオーストラリア政府の規制って猫の目のようにころころ変わるから、判り難いんですよね。
だいたい今回だって東京のオーストラリア領事館でさえもちゃんとした情報くれなかったわけだから。
さて、ここ数日書いている僕の車遍歴。
今日はイギリスの免許取得について書きます。
ロンドンに1974年に移った僕ですが、すぐに現地の免許証は取得しませんでした。
なぜならば、日本の国際免許で運転している方が「便利」な事が多かったからです。
当時英国では外国免許証で運転できるのは6っヶ月までとか1年までとか言われていました。
しかし実際には日本に帰る度に日本の国際免許を持って帰ってくればどのくらい使用しているかなんて判らないわけです。
で、まだオンラインなんて無かった時代ですから調べられても全く問題ない。 そしてスピード違反などで捕まっても外国の国際免許ならほとんど見逃してもらえてしまう時代だったのです。
僕もスピード違反で2度と無灯火(ヘッドライト付け忘れ)でパトカーに止められた時にも日本の国際免許を出すと「旅行者か」と言われて「注意して運転するように」と放免してもらったものです。
僕の隣に住んでいたイタリア人など、イギリスに10年も住んでいるのに常にイタリア免許で運転していました。
それだけロンドンには外国(コンチネンタル)から来ている人間が多いという事なのです。
しかし僕の場合、隣のイタリア人のようにしょっちゅうイタリアと英国を行ったり来たりするには日本は遠すぎて、その国際免許が切れかけてしまう事があったのです。(毎年日本へ帰っていたわけではないので)
こういう場合に事故でも起こすとせっかく国際免許でも入れた車両保険が無効になってしまう可能性も有ったのでロンドンに住み始めて3年後の1977年に英国免許を取得する事にしました。
今週の日記に書いたように生まれてから一度も自動車教習所には無縁で、日本でも随分と運転の経験は有りましたから、当然ぶっつけ本番で実地試験を受けました。
120%一発で合格する自信はありました。
イギリスの運転免許試験というのは、試験車は自分で用意するのですが、当時女房が乗っていたメチャクチャ古い「ミニ」を自分で運転して試験場まで行き、試験を受けたら見事に「落ちてしまった」のです。
いやこれにはビックリしました。 なぜ落とされたのかも判らなかった。
で、落とされてショックを感じながら、またそのミニを自分で運転して帰ってきました。
これって全く不思議でしょ。 試験を受けに行くのも試験に落ちて帰るのも自分で運転してくるって。
そう、日本の国際免許が有効だと言う事なのですが、なんか不思議。
で、家に帰ってから落とされた理由を色々考えました。
イギリスの教習所に行った経験のある友人に聞いたところ単純明快に「初めてだから落とされた」というのです。
試験官は受験者が何度目に受けにきたかわかる仕組みになっているので、もったいぶって一発では絶対に受からせないぞと言う典型的な「イギリス」なのだそうです。(英国タクシー免許の試験の難しさはあまりにも有名でそれを題材の映画まで作られたほど)
その上、僕は「外国人」であること。
はたまた「ミニ」という誰でも簡単に運転できてしまう超小型の車を持ち込んだのも、嫌味で落とす理由になっているとも言われました。
そうそうイギリス独特にハンドルの握り方もありましたな。
日本なら10時10分に握るのに、イギリスはなんと4時40分なのです。
その上、ユーターンなどでハンドルを何度も回す場合でも絶対にハンドルから両手を離してはいけない、つまり常に4時40分の位置からずらす、確か日本語で「送りハンドル」をするのです。
こんな馬鹿なハンドル操作をしないとその実地試験中100%完璧な運転をしても「落とされる」のも知りました。
日本の国際免許が切れてしまうのが迫っていたので、僕は慌てて2回目の試験を申し込みました。
そして、今度はミニではなく購入したばかりのフェアレディー260Zを試験車として持ち込みました。
小さな運転の簡単な「ミニ」では嫌味で落とされるのなら、運転の難しそうな(当時の260Zはパワステも無しだし最小回転半径も大きかった)車を持ち込んでやろうと。
さすがにこれには試験官もビックリしていました。
試験官が僕の名前を呼んで、あなたの用意した車はどれですかと聞いた時にその真っ赤な260Zを指差したら、思わず試験官の顔がほころびました。
試験が始まってからも試験官は初めて見る260Zの内装や乗り心地等の話をしていました。
そう当時はイギリスに「260Z」は10台も無かったのではないかと思います。
当然試験には合格しました。 合格して当たり前ではありますが、やはり嬉しかったです。
何しろ世界で最も権威のある(?)と言うか難しい(と当時は言われていた)免許を取得したからです。
と言うのもこの免許一旦取得したら70歳まで有効と言う免許なのです。
で、今この日記を書きながらその時に取得した英国免許を引っ張り出してみました。
現在の英国免許はこの僕の免許と同じかどうかわかりませんが、薄いグリーンの紙に有効期限2017年8月30日とあります。
そう、今から27年も前に取得した運転免許証が後13年間も有効なんて笑ってしまうでしょ。
で有効期限があまりにも長いのでこの免許には顔写真は貼ってありません。
そう本人確認のための写真等ついていないのです。
現代の英国免許は多分違うと思いますけどね。 この僕のアンティックのような免許有効なんでしょうかね?
これがその英国免許証。 ただの紙切れでしょ。
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多分見えないと思いますが、この免許には1978年11月22日から2017年まで有効となっています。 普通自動車は1977年に取得したのですが、自動二輪免許をその一年後に取得したので、1978年になっています。
この自動二輪免許取得にもある事件が関係しているのですがそれはまたの機会に書きます。
続く
2004年3月5日
本日の日記は都合によりお休みいたします。
では皆様良い週末を。
2004年3月8日
先週の木曜日に、日本から親戚が到着して以来、久し振りにツアーガイド役を任されて、毎日車で出かけております。
ほとんど家にいる時間が無いのに、偶然先週の週末はF-1のオーストラリア・グランプリ、2004年の緒戦でもあるしどうしても見たい。
ところがせっかく日本から来ているのでほっぽり出しておくわけもいかず、結局全て録画して見てました。
それにしてもつまらないレースでした。
今年のフェラーリがこれほど調子が良いとは誰も予測はしていなかったのではないか、特にフェラーリの得意とするアルバート・パークだからというのは有るのかもしれないが、いや〜、他のマシーン(ホンダは除く)のふがいなさに、しらけておりました。
いやフェラーリが速すぎるのかもしれませんが。
何しろシュウマッハーなど最初の給油に入る前に軽々と1分24秒の前半なんてポールポジションの時のタイムさえも上回って、開いた口がふさがらない状態でした。
なんだか今年も(と言うか昨年以上に)ファラーリの独壇場が続くようなら、う〜ん、夜中まで起きて実況は見ないかもしれませんな。
最近はデジタル地上波なので、ハードディスク・ドライブに録画するお陰で画質も良いだけでなく、シャトルサーチなども簡単に出来て、ヴィデオ・テープとは雲泥の違い、わざわざヨーロッパとの時差で眠い思いをしなくともと。
面白くなかったレースの唯一の救いは、BARホンダが予想外に速かった事。 相変わらずシャシーはいまいちのようですが(佐藤琢磨のオンボードを見ていると、ハンドル修正に大忙しって感じでしょ)今後が楽しみです。
予選でBARホンダのジェンソン・バトンが4位に食い込んだ時、多くの人が良いタイムを出すために極端に燃料を少なくして予選に望んだと考えていたようですが、これも予想外に燃料は積んでいたみたいで、逆にフェラーリが結構早く給油に入ってきた事。
もう一つの驚きは、今年から採用された、「1台のエンジンで予選から全てを走りきる」という新ルールのために、もっとエンジンブローでリタイヤするマシーンが出ると思っていたのですがね。
佐藤琢磨選手の9位は残念と言えば残念なのですが、まあ順当かなとも。 彼はこのようなコースをあまり得意としていないのではないかと見ております。
話がレースのことばかりになってしまいましたが、久し振りにツアーガイドやってみたら、随分と様子が変わっている所が多いのに驚かされました。
まずはブラックタウンにある「フェザーデール動物園」
隣接の土地を買収したのか前よりもずっと広くなり、動物の数も増え、中のコースもずっと見やすくなっていました。
コアラの数も倍増していましたが、見物客の数も増えているのではないかと。
偶然僕らが入園したとたんに、茨城県からの高校生の修学旅行の団体がわんさと押しかけ、我が親戚がコアラと一緒に記念撮影をしようにも長蛇の列が出来てるしまつ。
今日本からの修学旅行の時期なのでしょうか?
本日もオペラハウスを案内していたら、またまた日本の高校生の修学旅行の団体がバス3台分押し寄せて、「日本って本当に不景気なの?」って感じでした。
今やオーストラリア旅行の方が国内旅行よりも安くつく場合が有るとかは聞きますが、これだけ日本人の若いのがどこに行ってもぞろぞろと行進しているのを見ると、やっぱり日本は豊かではないのかと。
最近は同じ東洋人でも、中国、韓国、台湾と団体客が急増していますが、修学旅行の若いのはいません。
僕のような年齢の人間には修学旅行が海外ってのがまず驚きと言うか。
さて、下につけた写真はシドニーの観光名所で最も人気のあるブルーマウンテンはスリーシスターズを望むエコーポイント。
いや〜、本当に大きく変わりました。
工事をしているらしいというのは聞いていたのですが。
↑すごく近代的に見えるでしょ。 なんか違うところみたい。
残念ながらこの写真にスリーシスターズは収まりませんでした。
ちなみにスリーシスターズはこの写真の左手の方角です。
2004年3月9日
数日の雨模様ですっかり秋らしくなったと思っていたら、いきなりまた真夏に戻ってしまったような暑さ。
面白いもので、北半球の日本では、昨日母の里「山口県」から電話があり「大雪」で寒いと。
本日は女房が親戚と母を連れて「ハンターバレー」までガイド役を引き受けてくれたので、経理士事務所に書類を届けたり、片付けなければならない事をやる時間が。
で、今日の日記は書きかけの「僕の自動車歴」を終わりにしようと思っていたのですが、ほかにも書きたいことが出てきてしまいました。
それは人間の味覚について。
今我が家に遊びに来ている母の従妹とその娘。
やはりと言うか、日本食以外は全く苦手のようです。
とても興味深いのは、我が母と出身も育ちもそれほど変わらないのですが、方や結婚のために20代前半で東京に出てきた我が母。
それとは対照的に、山口県の山陰の田舎で結婚し、都会暮らしは全くした事の無い、従妹。
これほど味覚というか、食に対する考え方が違ってしまうものなのかと驚くことしきり。
母がオーストラリアに住みに来たのが1987年ですから、17年前。
母は今年81歳になったので64歳の時。
以来オーストラリアで「食べ物が口に合わない」と文句を言ったのを聞いた事が無い。(特にイタリア料理やタイ料理が大好物)
母と同年代の友人達の中には何人かの戦争花嫁が含まれますが、彼女達は20代でオーストラリアに嫁いで来たために、味覚がもっとフレキシブル(柔軟)だったのもあるでしょうが、それより何より「食べ物が口に合わない」からといって、離婚して日本に帰るなんて訳にも行かなかったわけで、味の違うその土地に慣れるより仕方が無かった。
しかし母のように60歳を過ぎてからオーストラリアに来て、僕の女房がオーストラリア人のために毎日日本食を食べるわけにはいかない環境で、全く「文句」というのを聞いた事が無い。
これは一昨年他界した我が父にも言えることでした。
日本にいる僕の甥が大学時代夏休みを利用して何度か我が家に遊びに来た時に我が家で食事をすると、日本食の時にはおとなしく食べているのですが、日本食以外は結構文句を言ったものです。
まだ大学生の若さで「これは甘すぎる、これは辛すぎる」と言うので、不思議に思ったものです。
と言うのも僕の妹の料理は、我が母の影響を当然受けているわけで、それは僕も同じ事なのですが、その息子ですから味覚的にそれほど我々と違うはずが無いと思ったからです。
で、これはどうやらその人間個人の性格に関係有るのではないかと。
つまり食だけでなく、音楽でも絵画でも今まで経験した事の無いものに接した時に、どれほど柔軟に対応できるかと言う事ではないかと。
未知の料理を食べる機会があって、口に入って来た味が好きか嫌いかを判断する場合、すでに口に入れる前から「見た目」でだいたいの味を想像してしまい、それが今まで味わった事の無い場合は即「拒否」つまりネガティブに反応してしまう人が多過ぎるように感じます。
特に日本人にその傾向が強い。
つまり日本食が世界で一番美味い物で、それ以外はたまに食べても良いが、やっぱり出来る限り「日本食」ってタイプ。
このタイプには大変な勘違いが有るのです。
つまり「寿司や刺身」は別にしても、日本人の好む日本食はほとんどが元をたどれば外国から入ってきた物でしょ。
天ぷらやトンカツだってそうですし、若い人に人気のカレーライスも当然元は日本の物ではない。
納豆でさえルーツは確かインドネシアだったか。
日本食なら食べるがそのルーツは全く興味を示さないって、日本のジャズは好きだがアメリカのジャズは聞かないというような。
確かに不味いと言われる英国料理と比較したら日本料理の方が美味しい物(と言うか日本人の僕には口に合うもの)が多いのは確かですが、しかしイギリスにも美味しい物はある。
またその国の食文化も時代と共に大きく変化するわけで、今のロンドンのグルメ志向は僕が住んでいた24年も前と比較したらまるで違う国のよう。
ドーバーにトンネルが出来、ユーロスターで手軽に大陸に出掛ける事が出来るようになって、今やイギリス人の海外旅行の最大の目的は海外で色々な食文化に触れる事であるというリサーチの結果もあるらしい。
イギリス人は食に無関心と言うのが相場だったのですが。
ですから最近のイギリスでは、若き天才シェフと言われる「ジェイミー・オリバー」や、はたまたインテリア・デザインで世界的な名声を得ている長老「テレンス・コンラン」の二人が、イギリスの食の文化を牽引して、大きな変化を見せているらしい。
このような動きはオーストラリアでも起こりつつあるわけです。
今回母の従妹が来ると言うので、女房も我が娘も是非食べさせたいと言うメニューを考えていたのですが、残念ながらその機会は無いようです。
昨晩も結局無難にという事で、シドニーノースの「魚や」というシーフードが得意な日本食レストランに行くことになり、そこで「やっぱり日本食が一番良いわね、ほっとするわ」と言われると、残念と言うかある意味「可哀想」でもある。
せっかく世の中には日本食以外にも「美味しい物」は沢山存在するのに「日本食以外は苦手だ」と頭から決め付けて「トライ」しないってなんだかとても残念。
2004年3月10日
本日の新聞に興味深い記事が出ていました。
シドニー・ハーバー・トンネル内で何度もオートバイで爆走した男が逮捕されたというニュースです。
日本ではシドニー名物の「オペラハウス」の次くらいに知られたシドニーハーバーブリッジ、そのハーバーブリッジが現代の交通量に対処できなくなってきたために、建造されたのがシドニー・ハーバー・トンネルです。
随分前の日記にこのトンネル建造のいきさつは書いたと思うので簡単に紹介すると、長い間トンネルの必要性が叫ばれながら、資金や建設工法の問題などで、いつ実現するのさえ判らない状態でした。
結局シドニー・ハーバー・トンネルは、トンネル工事を得意とする日本の熊谷組の子会社、「熊谷オーストラリア」の当時の社長だった三谷氏の努力によって実現したのです。
この辺のいきさつは、一時期僕も三谷さんのお手伝いをしていたので、よく記憶しています。
さて、このトンネルは上りと下りで別のトンネルに別れていて、それぞれが2車線、制限速度は時速80キロです。(結構狭いです)
開通した時にはあまりにも路面がスムーズなので、デコボコ舗装の多いシドニーを走り慣れた僕にはまるで雲の上を走っているようでした。
実際にはトンネルを掘ったのではなく、2車線分の車が通れる大きなパイプを陸で建造して船でシドニー湾に運び海中に落とし繋げてあるものです。
さて、本日の新聞記事に出ていたこの「激走男」はトンネル内で何度も、時速200キロを超える速度で走っていたらしい。(記録では212キロ)
実はトンネル内にはスピード違反を取り締まるカメラが設置されているのですが、この男はナンバープレートに細工をして、写真に撮られても読めないようにしていたとの事。
度重なる違反、ましてやあまりにも過激な速度なので警察は本格的捜査に乗り出したのだそうです。
この男、スピードを楽しむためにワザワザ早朝の午前4時から5時に出没してスピード違反を繰り返していたので、普段は全く頼りにならないオーストラリアの警察ですが早朝から警戒に当っていたとか。
オーストラリアで空き巣などに入られても、まず警察が動いてくれる事は皆無で、全く頼りにならないのに、このように警察が「なめられている」というような場合には思いっきり頑張ったりするんですね。
さて警戒に当っていた警察、ある朝スピードを上げてトンネル向かって来るバイクを発見、一時停止をして職務質問をしようとしたら、このバイク男一旦は停止をするように時速20キロまで落とし、警察官のそばでいきなり加速し逃亡を始めたたそうです。
この男がどのようなバイクに乗っていたのか判りませんが(多分1000ccクラスでしょう)逃亡時には軽く200キロを超えるスピードで、結局警察を振り切ってしまったとか。
オーストラリアの警察というのは、日本と違って他の交通の危険をあまり考慮せずに、思いっきり高速で追跡をするのですが、結局逮捕に至らなかったらしい。
(追跡中に逃亡車や追跡中のパトカーが事故を起こし、巻き添えになって命を落とす事故は結構有ります)
そのときには逃げられてしまったが、追跡中にナンバープレートの一部を読むことが出来、後日警察は身元を割り出し、逮捕したのです。
捕らえてみたら31歳のセキュリティー会社に勤める男で、この記事から想像するような若い暴走族では無いように見えます。
そういえばオーストラリアでは暴走族というのをほとんど見かけませんな。 全くいないわけではないと思いますが。
僕がカートのレースをやっていた頃、僕のライバルの少年から、彼の兄が警察に何度も捕まっていると言うので理由を聞いたら、改造車(ほとんどがドラッグ・レース用の改造)で街中で競争するので逮捕され、車も押収されてしまったと。
しかし僕は街中でそのような暴走(競争)にお目にかかったことがありません。
それにしてもこの男の場合は朝の4時なんて、誰も走っていない時間帯にワザワザ早起きてしてスピードのスリルを楽しんでいたのでしょうから、それほど罪は無いのではないかと。
この新聞記事を読んだ後、今日も親戚を連れてノーズヘッドの展望台にに向かう時にハーバートンネルを通りながら、時速212キロでここを通過したら狭いトンネル内の壁が思いっきり迫ってくるだろうなと考えて見ていました。
そう思うと、F-1のモナコグランプリなんて、あの有名なトンネル内を時速300キロ以上で走るわけで、う〜んあらためて凄さがわかりますな。
それほどの速度でトンネル内を通過すると、本当に回りの壁が迫ってくるでしょうな。
このニュースを見て昔日本でフェラーリのF-40という車で、東名高速を時速300キロを超える速度で走って捕まった男を思い出しました。
この男は確か東京近郊でフェラーリのディラーをやっている人間で、F-40でどこまで出るかをヴィデオに撮って、なんとそれを販売していたらしい。
日本のスピードカメラは時速300キロ超なんてのには対応していなくて、違反車を機械が察知してカメラのシャッターを落としても、すでに車は通り過ぎてしまっていて、警察は彼を逮捕する事が出来なかった。
しかしこの男はその「激走ビデオ」を販売していたから、警察も購入してそのビデオを証拠品として彼を逮捕したという話です。
彼の撮影したビデオが証拠品として認められるのかと、興味深く読んだ記憶があります。(法律的にオーストラリアでは無理かもしれないですね証拠品とするのは)
と書いていたら自分の事(恥)も思い出してしまいました。
実は「例の彼女」が我が家に来てから、その実力をどうしても知りたくなって、ある日交通の無いのを見計らって、少々飛ばした事があります。
ボンダイジャンクションからオックスフォードに向かうフライオーバーという、長さはたった1キロ有るか無いかという、高速道路になっているようなところがあります。
道幅も広く、信号も無い、当然歩行者などは入れないところなのですが、たまたま他に車がいなかったので全速で加速していったのですが、せいぜい3速でレッドゾーンに飛び込むまでで4速には入りませんでした。
(例の彼女は古い車なのでたった4速しかありません。 それでもオーナーズマニュアルには4速の最高速度が300キロと書いてある。 そんなに出るんだろうか)
出した速度は秘密ですが、今日の新聞を読んで、僕も捕まって新聞記事にされたら、大いに恥をさらす事になるので、気をつけなければと。
2004年3月11日
一昨日の日記に、母の従妹がオーストラリアに来たが、日本食以外ほとんど食べられなかったと書きました。
それについて僕は彼女を批判しているつもりではなく、「残念」というか食べられなくて「可哀想」という思いを書いたつもりです。
このような事は度々起きるので、もう慣れてしまっているほど。
10年程前だったか、まだ父が健在の頃の話です。
僕の両親は若い頃からの夢だった、「豪華客船で海外クルーズ」に出たいと言い出した。
で、英語に自信が無い父は日本の会社がやっている(確かクリスタル・ハーモニーとか言ったと思います)クルーズを申し込んだ。
飛行機でサンフランシスコまで行き、そこから南下して南米を通りパナマ運河を通って大西洋に出て、ニューヨークまでの航路でした。
どうせ一生に一度のクルーズだから贅沢にしたいと両親が選んだのは確か一番上のスイートでした。 正確に何と言うクラスだったかは忘れてしまいました。(飛行機のようにファーストクラス、ビジネス、エコノミーの3つというクラス分けではなく、船の場合は何種類も有るので)
この高いクラスを選んだもう一つの理由は、そのクラスを選ぶと添乗員が日本から付き添って航海中も身の回りの世話もしてくれるというので、英語に自信の無かった父はそれを申し込んだのです。
ところが船会社から電話が入りそのツアーがキャンセルになりそうという話になった。
つまり当時は、すでに日本のバブルがはじけた後だったので、そのようか高額(確か夫婦(二人)の料金は新車のベンツのSクラスが購入できる程でした)ツアーの申込者が他にいないのが理由のようでした。
どうしてもそのクルーズに乗りたい父は船会社に「もう一カップル」いればそのツアーは成立するのかと確認の上、山口県にいる母の同窓生とそのご主人に声をかけたのです。
彼らも是非行きたいということになり、結局その御夫婦と我が両親の合計4人のためにツアーが行われたのです。
日本からたった4人のために女性の添乗員が付き添い、日本アメリカ往復の飛行機はファーストクラス(添乗員もファーストクラスに一緒)、クルーズ中やオプションの寄港地での観光など全て彼女が通訳をしていたそうです。
このようなクルーズでは毎晩のように船長主催の晩餐会が行われ、最上クラスの客は船長と一緒のテーブルで豪華料理を満喫するという事でした。
ところが。
この母の同窓生、今回オーストラリアに来ていた母の従妹と同じように、いやもっと「強烈に」、日本食以外全く受け付けなかったのです。
僕自身は客船のクルーズなんて今のところ全く興味有りません。
その理由は毎日海を眺めながら「食っちゃ寝」の繰り返しでしょ。
僕にとっては血糖値が上がってしまうような事に大金を使う気は無いのですが、しかしクルーズを楽しむ人にはその馬鹿高い料金の中に含まれる料理や酒を楽しむためにクルーズに参加しているわけでしょ。
ところがその御夫婦、ベンツの新車が買えちゃうほどの金を出しながら全く毎晩「ご飯に漬物、それに味噌汁が有れば良い」の一点張りだったのです。
海の幸や肉料理、フランス料理を主体のその晩餐のための料理には一切手をつけないのです。
晩餐会は全て洋風で日本食関係は一切なかったのです。
で、その大型客船の中には(日本の船会社が経営していたためか)日本食レストイランも有ったのだそうです。
これは毎日の西欧料理に飽きた客や昼はたまには日本食をというような要望にこたえるために有ったようですが、日本人が働いていないだけでなく、料理の出し方もまるで西欧料理を出しているような物だったそうです。
例えば味噌汁は西欧のスープと同じという考えからか、一番最初に味噌汁だけが出て、それを飲み終わらないと次の料理が運ばれてこないというような。
その上、この日本食レストランはエクストラであるという考え方なので、そこで食事をすると別料金がかかったそうです。
気が遠くなるようなクルーズ料金を払っているのに、その日本食を食べると別に料金を払わなくてはならなかったと聞いた時には、僕は信じられなかった。
しかし母の友人は毎日そこでご飯を出してもらい日本から持参した漬物やワカメを刻んだようなものをご飯に振りかけて食べていたそうです。
大事な最上客室の客が船長主催の晩餐会には出なかったので、船長は困って、何晩かは母の友人のためにその日本食レストランに来て晩餐会をやった事も有るとか。
結局その母の友人は航海中全てその日本食(大体ご飯と味噌汁だけのようなもの)だけで済ませたそうです。
勿論本人の好みなので僕が文句を言う必要も無いのだけれど、しかし本日の日記の最初で書いたように、「日本食しか受け付けない」ってやっぱり僕は可哀想だなと感じてしまうんですけどね。
そうそう確かにそのような日本食はカロリー過多の西欧料理よりヘルシーかもしれませんが、しかしその母の友人ほど極端だとやはり弊害も出るようです。
ちなみにその方は骨疎そう症(この字でしたっけ。 カルシュウム不足で骨が折れやすくなる)で先日もあばら骨など数本折ってしまっているとか。
う〜んやっぱり、という気がしますな。
2004年3月12日
毎日のように届けられる電子メールマガジン、通称メルマガの中には、日本国首相からのものが有ります。
正確には「小泉内閣メールマガジン」、しかし最近はほとんど読まないままになっています。
久し振りに本日届いたのをクリックしたら、鳥インフルエンザ騒動のためか「タマゴ(鶏卵)」の話が書いてありました。
タイトルは「タマゴのはなし」とあり、国民の不安解消のために政府を挙げて対策を進めているというような事が書いてあります。
しかしその対策の詳細には触れられず、今の卵の値段はこの50年間、昔も今もほとんど変わりらず、「物価の優等生」であるとおっしゃっている。
また「小さなかごに入れられて、一生土の上を歩くこともなく、太陽の光を浴びることもなく、タマゴを産み続けるにわとりのタマゴと、放し飼いのにわとりのタマゴが同じように扱われていることに対する私の疑問、、、、」とも書かれています。
その話を読んで先週の土曜日にダーリングハーバーの生産者市で買ってきた地鶏の卵の事を思い出しました。
Happy Chooks Lay Healthy Eggs Open Range Eggs とタイトルで、
These eggs are produced by healthy hens living in total freedom amongst old
orchard trees and are fed by the best organic grains and chemical free grass and
grain sprouts.
とこのタマゴの説明があります。
生産者の住所は 90 Lackersteens Road,Somersby NSW 2250となっています。
僕がこのタマゴを初めて食べた時には確かに美味しいがビックリするほどではないと思った。
これは女房が買って来て「メチャクチャ美味しいから」と大宣伝をしながら僕に食べさせたので過剰な期待があったのかもしれません。
ところがそんな事はすっかり忘れてしまっている頃に、ゆで卵を食べて「あれ!何だか随分美味しいけどひょっとして」と聞くとやはりそのタマゴなんですよね。 はっきりと美味しさが判る。
これって何の差なんでしょうね。 餌が違うのだろうか。
この箱に書かれているように、鶏が「ハッピイ」だから味が良いでしょうか。 非常に興味が湧きます。
人間でも妊娠している時の精神状態が生まれてくる子供に影響が出るのでしょうか。 我が母は東京に嫁いできて最初に僕を産んだわけだが、確か母は姑や小姑に相当に「いじめられ」たらしい。
特に二番目(僕の妹)が生まれた頃はいじめが酷さを増していて、精神的に随分と悩み神経性「ハゲ」になったり、母乳も出なくて苦労したという話を良く聞かされた。
だから妹は子供の時に非常に体が弱かったとも言っておりました。
このたび母の従妹がオーストラリアに遊びに来て、二人で昔話をしているのを聞いていると、お互いに嫁いだ家の姑にいかに「いじめられた」かなんて話で盛りあがっておりました。
昔のNHKの朝の連続テレビドラマ「おしん」ではないが、日本の家族主義の中で姑の嫁いびりは定番のようで、僕のように海外に長く住んでいるとすっかり忘れてしまっていたような話題です。
相変わらず日本では「嫁いびり」は日常茶飯事なのかどうかは知りませんが、やはり姑が老後何もやる事が無い、趣味なども無くただただ毎日家にいる嫁を「いびる」のが生きがいになっているという、なんとも「精神的に貧しい」環境がこういうシチュエーションを作るのでしょう。
そういう意味では我が母の場合、自分が嫁の時に苦労した、だから自分が姑の立場になった時に絶対に同じ間違いをしないと心に誓っていたために、とても平和では有ります。
また我が家の場合は同じ日本人同士の嫁と姑という関係からはちょっと違うというか、文化の違いだからと割り切って考えられる良さも有るのかもしれません。
何だかタマゴの話から随分と違う話になってしまいました。
さて昨日母の従妹が日本に向けて発ったと思ったら、入れ替わりに今度は2匹の猫が来ました。
オーストラリアに住む友人が日本に帰る事になり、飼い猫を日本には持って帰らないので、新しい買主を捜しているのは知っていたのですが、我が女房が一目惚れをしてしまい、二匹とも我が家で飼うと言い出した。 僕はそれには非常に気が進まず迷っているのです。
というのも、我が家には12歳になる猫がいて、この猫が非常に行儀が悪いので外で飼っています。
で、新参者が来て家の中で住み始めたら、非常にやきもちを焼くのではないかということ。
心配した通り我が家の猫が非常に機嫌悪くなって困っております。
他に貰い手がいたらそちらにお願いしようかしらと考え始めた。
下につけたのがその2匹。 我が家のどら猫と違って血統書つきの素晴らしい猫です。

左は「アメリカン・ラグ・ドール(American
Rag Doll)」で、右が「シャム」です。 二匹とも素晴らしいブルー・アイです。 可愛いでしょ。 二匹は非常に仲が良く、寄り添って寝ています。
2004年3月15日
オーストラリアにおけるインターネットのブロードバンド化は、すっかり日本に遅れを取ってしまっていたのですが、最近になって最大手「テルストラ」がADSLのディスカウント攻勢に出始めたのがきっかけに、様相に変化が見え始めています。
たった数年前は日本のほうが遅れていると思う事も有ったのですが、さすが日本というか、マーケットも大きいし、資本のマスが違うと言うのか、一旦火がついたらあっという間にオーストラリアを追い越して、光ファイバーなども含め、今やオーストラリアでは考えられない環境になりつつあるようで、羨ましい事しきりです。
と言ってもやはり日本でも都市部を中心のようで、我が母の郷里山口県の山陰ではいまだ全くブロードバンドの恩恵は受けていないようです。 さて今回の動きが出るまで、オーストラリアでは一部のプロバイダーが安売りを始めていたのですが、大手は静観しているばかりでした。
だいたい、ブロードバンドと言っても個人向けは「悲しくなるほど」遅い、たった256kbsなんてレベルでした。
こんなのをブロードバンドと言って良いのかとさえ思っていたものです。
ただし僕の場合はケーブルテレビの有線を使ったブロードバンドだったので調子の良い時には1.5Mbs程は出ていました。
またこのCA-TVの場合はかなり安定しているし、オーストラリアの不安定なADSLよりはずっとマシな状態でした。
しかしここへ来てやっと大手が動き出したと言う感じですが、それでも料金がどっと下がると言うような事はまだ起きていません。
この辺は日本でヤフーが当時としては超過激な低料金で参入したような起爆剤が乏しいのかもしれません。
孫さんオーストラリアにも来て〜。
さて今回の変化で、全般にブロードバンドの料金が下がるという噂は聞いていたのですが、僕の場合は結局料金据え置きで、使用制限量が今までは3ギガだったのが12ギガまでに拡大されたのです。
宣伝には毎月69.95ドルで無制限とうたっていますが、実際には12ギガを超えるとスピード制限が始まり、何とたった28kbsに落とされてしまいます。
この28kbsってのはダイアルアップ接続のスピードなんですよね。
だいたい僕にとっては12ギガに増やしてもらってもちっとも恩恵を感じません。
今まで最高に使った月でも3ギガを超えた事は無かったのですから。
最近ブロードバンドニュースと言うのをたまに見ますが、これからはそのようなコンテンツをもっとダウンロードしてみようかなとは思うけれど。
それにしても月額69ドルって日本円で6500円ほどで、ちっとも安くないでしょ日本の料金と比較して。
で、3月1日から12ギガにしてもらったのは良いがどうもスピードが前より遅くなっているような気がしているのです。
「ご近所」つまり僕と同じラインを使用している人達も、12ギガになったというのでどんどん大きなファイルをダウンロードしているのか、はたまた我がプロバイダーが12ギガと宣伝しておいてスピードを落とすようなことをしているのか。
つまり使い放題と言いながらちっともスピードは出ないのでダウンロードの時間が掛かる、イコール、総使用料はそれほど増やさずにすむと言うような。
と、この日記を書いていたら僕のプロバイダーからメールが来て、料金も一ヶ月あたり5ドル(400円ちょっと)値下げすると知らせが。
今年の3月までは上限3ギガで月額69.95ドルというのが2年以上も変わらなかったのに、ここ一ヶ月の間に上限が6ギガになり、そしてその6ギガが再び倍の12ギガに変更になり、それでもお客がテルストラに流れているのか5ドルの値下げと嬉しい変化が起きています。
値下げ合戦といえば今やイギリスのヴァージンエアーのオーストラリアマーケット参入以来、オーストラリアの国内線航空料金の値段はまさに「熾烈」とも言える値下げ合戦で考えられないような値段で購入できるようになっています。
いつまでこの「カンタス対ヴァージン」の戦争が続くのか判りませんが、我々消費者にとっては喜ばしい「戦争」ではあります。